skip to Main Content

なぜ周防大島に移住したのか?

周防大島に移住して6年が経ちました。
生後間もなかった息子も、もう6歳。今では小学校に上がり、授業なるものを受けているのですから、「歳月人を待たず」とはこのことでしょう。

何もかも新鮮だった頃と比べて、島の暮らしにもずいぶん慣れました。今年から地元のお寺の世話人を務めることになり、もはや「移住者です」と挨拶することもなくなりました。

前のめり時期を過ぎ、落ち着いて暮らせるようになった今だからこそ、書けることがあるのではないかと、キーボードに指を置いてみた次第です。

周防大島は父の実家があるところで、小さい頃から馴染みがありました。昔も今も変わらないのは、美しいところ、という印象です。

海があって山があって、空気も清々しく、のどか。
毎朝毎夕、犬の散歩で近所をぐるっと歩き回るのですが、ああ、いいところだなーと6年も居てけっこうな頻度で思います。
わが家のドッグランは歩いて数分の誰もいない海で、ワンコはその広大な砂浜を縦横無尽に駆け回っているので、めっちゃ筋肉が発達しています。動物病院で理想的な体型ですね、と褒められるぐらい。

子は子で島を謳歌していて、道端に生えている草花の蜜を吸ったり、野苺や放置されているサクランボやビワ、秋冬はミカンをむさぼり食ってます。

いつの日か息子が都会に出たとき、そのギャップに何を思い、どう振る舞うのか。ひそかに楽しみだったりします。

そんな息子を片目に、自分はこの島で人生の最期を迎えるのだろうか、と時折考えたりもします。
高齢化率が50パーセントを超える島です。周りにはお手本がいっぱい。傍目からは、みんな幸せそうに見えます。

ただ、まあ、未来なんか不確定要素の塊だと思うぐらいには歳をとったので、正直その時になってみないとわからないのですが、それも悪くないなと思うぐらい、この島での暮らしが気に入っています。

なぜ移住したかは今になって思うと、「都会の暮らしに飽きたから」だと思います。
大量生産、大量消費型の資本主義的なモノに疲れ、少なからず自分も(広告制作というナリワイも)それに加担しているとの負い目がありました。その制度疲労、構造破綻が2011年、原発事故という形で顕在化したとき、「ああ、このままではいけない」と思ったことが移住のきっかけになったと思います。

そうしたことを含め、「このまま東京で暮らしていてもワクワクしないなー」が、理由だった気がします。

島の暮らしは良い意味でも悪い意味でも等身大で、身の丈にフィットしている感覚があります。
移住当初は都会の垢が抜けきれず、無理して頑張っていた時もありましたが、徐々に島のリズムに合うようになってきました。

そんな頃、是枝裕和監督へのインタビュー記事を読んでいて、こんなフレーズを見つけました。

「生」も「死」も「出会い」も「別れ」も
すべて等価なんだっていう
どこか澄んだ感覚も、わかりはじめてる。

この言葉に触れたとき、うわっ!と思ったんです。自分が周防大島で感じている感覚そのものだ!と。

町内放送のスピーカーから流れる訃報、先祖の墓の多くは海をのぞむ一等地にあり、死者を弔うお寺の行事は住民総出で行われ、朝早く鳥のさえずりとともに誰かの木魚を叩く音が聞こえる・・・
そんな、都会ではあまり意識することのない「死」という存在がごく身近にあり、当たり前のものとして日常に溶け込んでいる。

「生と死が等価で澄んでいる」。その空気を吸っていたんだ!と。

今まで言葉にならなかったことが言葉になって、ようやくこの島に来た本当の理由がわかった気がしました。
取り留めもなく書き連ねましたが、今のところこんな感じです。 また心境の変化があれば、書いてみようと思います。

Back To Top