小論文の先生から教わった言葉
人は死ぬという事実を知ってから、ぼんやりずっと
「なんで人間は生まれて、死ぬのだろう」
ということを考え続けている。
お酒を飲んだり、物欲に走ったり、
それを考えないように時間を埋めて、
わざと向き合わないようにしていた時期もあったし(今思えば)、
締め切りに追われたときなんか忘却の彼方だ。
でも、ときどき、
2021年6月16日の昼下がりとかに、
ふとその「なんで」が降りてきて、
あれ、なんだっけ?と答えの出ない禅問答にハマるときがある。
一応、それなりに年齢を重ねて、
考えるだけ無駄だってことは理解しているんだけど、
気を抜いた時、例えば、今日みたいな雨上がりの青空を見た時とかに、
きゅーんと胸が締め付けられ、物思いにふけってしまう。
真剣に向き合っていた時期もあった。
大学時代に舞台作品の脚本・演出をしていて、
その時、テーマにしていたのは「帰る場所」だった。
人はいずれ死ぬわけだから、答えはすでに出ている。
にもかかわらず、生きている間に「帰る場所」を探そうとしている。
どこに帰るのか?それが分かれば、
人間って?生きるって?死ぬって?の答えに近づける気がしたのだ。
それほど切実だった。
社会に出て、わかったことがある。
それは仕事であっても、この問いがついて回るってことだ。
どんな企業も「人の役に立つこと」を社会的使命にしている限り、
「人の幸福」を考え、その過程で
「何のために人間は生きるのか?」に向き合わざるを得ない。
家庭でもそうだろう。
結婚して、子どもが生まれて、その度に「生きる意味」を発見する。
同時に「死」を意識する。
昔、小論文の先生から教わった言葉がずっと残っている。
「死を忘れるな」
どんな文章を書くときも、
人間が、自分が死ぬってことを忘れてはいけないというのだ。
ようやくこの意味が分かりかけてきた。