硬貨手数料とお賽銭
2022年1月17日、これまで無料だったゆうちょ銀行での「硬貨の取り扱い」が有料になった。
自分の場合、クレカ払い派(昨年末に小銭入れを失くしたが、それほど困らないので無いまま過ごしているぐらい)なので、大した関心も持たずスルーしていたが、とあるニュース記事を読んで考え込んでしまった。
そのニュースとは、神社が非常に困っているというものだった。
内容をざっくり整理する。
硬貨手数料のルールは、
・窓口での預け入れで硬貨50枚までは無料
・51枚からは550円、501枚からは1100円
・預ける金額ではなく枚数に応じて手数料が加算
一方、神社のお賽銭は、
・50枚どころか膨大
・1円玉や5円玉もわんさか
・おそらく一番多いだろう5円玉を501枚(2505円分)預けたとして手数料が1100円
2505円-1100円=1405円!
つまり、すごく目減りする。改修やら行事などはお賽銭で賄っていたので今まで通りに行うことが難しくなる。そんな内容だった。
深刻だ。ただ、この時点ではまだ他人事である。
次に続く内容で、一気に自分事になった。
この解決策の1つとして紹介されていたのが、「お賽銭のキャッシュレス化」だった。すでにそうした神社もあるという。
まず、「えっ!」と思った。
普段ほぼキャッシュレスで暮らしているのにも関わらず、なぜお賽銭となると違和感が生まれるのか。しばらく考え込んでしまった。
きっと暇なのだろう。
想像したのは、初詣の時である。
我が家は決まって地元の神社に行くのだが(歴史は古く由緒あるところで、本殿は茅葺、立派な鎮守の森に囲まれている)、そこで「ピッ」とやって二礼二拍手する姿を思い浮かべた。
どうしてか、ありがたみが薄れる。
昔よく初詣に行っていた浅草寺だったらどうなるか。
ものすごい人数が押し寄せ、長い行列を作り、賽銭箱に到達するまで最低1時間はかかる、あの光景がどう変わるのか。
端末が2〜3だと混乱するから、最低10は必要だろう。
効率を考えると、並んでいる(牛歩している)間に「ピッ」しておいてもらった方がスムーズだろう。
駅の改札みたいなのがあって、通りすがりにピッ、ピッ、ピッとお賽銭して、拝殿の前へ。そして二礼二拍手。
これだ!これが一番効率良さそうだ。
・・・なぜだろう。あっとうてきに、ありがたみが薄れる。
お金はツールであるのだから、クレカでも電子マネーでも機能は同じである。
違いは丸い物体があるかないかだけ。
気持ちの問題、昭和生まれの古い考え方ってだけなのかもしれない。
話は少し変わるが、妻は好んで500円玉貯金をしていたが、手数料がかかるようになってから、貯金箱を破壊し、日々の生活でせっせと消費している。
500円玉を作るために、(小銭がたんまりあるのに)わざわざお札を出して、入手していたというのに。私がおいそれと500円玉を出そうものなら、「なんで出しちゃうのよ」と咎められたことは2度や3度ではない。
今まで、「集める」という自己満足のために行っていることだと思っていたが、そうではなかったらしい。それが得ではないと判断した時点で、その習慣はいともたやすく手放せる、ささいなものでしかなかったのだ。
(こんなことを言うと500円玉貯金派の方に怒られるだろうが、札が小銭になるだけなのでそもそも得をしない。厳密には貯金箱を買う分、損をする。よって気持ちの問題である)
ちょっとでも損をするぐらいなら、その習慣を捨てる。
お賽銭のキャッシュレス化で言えば、「ありがたみ」を捨てることも厭わない。
これは、いささか大袈裟だが、現代社会に渦巻く価値観、
「儲からないのになんでやるの?」が根っこにあるように感じられる。
効率がいいことは善で、非効率は悪。お金になるなら有意義で、お金にならない(損をするくらい)ならやる価値がない。
で、だ。
はたして、賽銭箱に硬貨を投げ続けることは正しいことなのだろうか?
たとえ神社に迷惑がかかっても、それをやることの意義は?
500円玉貯金と変わらない「気持ちの問題=自己満足」ではないのか?
今はまだほとんどの神社はキャッシュレス化されていないし、この問いに対する納得する答えも出ていない。
最終的に(二時間近く考えて)出した、とりあえずの結論は「お賽銭を気持ち多くする」である。
典型的な日本人、ここに極まれり。